一瞬の出来事だった――。 少なくとも玲奈にはそう思えたし、もしかしたら数十分だったのかもしれない、と思えるほどの瞬間だった。 マーシーの振りかざした拳に、玲奈は精いっぱいの制止を叫んだと思う。推定なのは、もう記憶にないからだ、何を言ったのかも覚えていない。 ただ、マーシーを自分は止めることができなかった。 止めたのは、玲奈にとっても、マーシーにとってもよく知る、彼女の声だった。 「マシーナリーエージェント1.0、緊急命令だ」 空から声が降ってきた。 「は、博士!?」 喫茶店の二階から白衣をはためかせ、一週間前にはあった眼鏡を外し、颯爽と現れた彼女は、そこにいるのが当然という風にすたすたと階段を下りて現れた。 「博士!いつからそこに!?」 玲奈の言葉に博士は答えなかった。いや、今は答えられないという風に、玲奈を一瞥してそのまま息を吸い込みマーシーを睨みつけた。 そして、放った。 「2452245F244E243324482450244F2446242F245E246424332473…っ」 「ええっ!?」 玲奈にはさっぱり意味わからない英数字を言い切った後、吐ききった息を整えるために深呼吸をすると、今度はひどく悲しげな目でマーシーに告げた。 「そのつかんでいる人を放しなさい」 『イエス、マスター』 ボタリ。 マーシーの手から落とされた男は訳が分かるわけもなく、現れた女性と、玲奈とマーシーを見比べて茫然としていた。 それを見て、玲奈は安心して息をつくと、マーシーの声音や動作の不自然さに気づいた。 あの、穏やかな口調も、常に微笑んでいる笑顔も、今のマーシーにはない。ただ無表情に虚空を眺め、次の命令を待つ人形のように固まり、動かずにいる。 「博士…、マーシーどうしちゃったの?」 博士は応えなかった、ただ答えの代わりに、言葉を吐いた。 「命令解除だ」 とたんだった、マーシーはその言葉に反応を示したように、きょとんとした『表情』を表わすと、すぐさまそばにいる博士に気がついた。 「博士、いらしていたのですか」 まるで何事もなかったように、ただ目の前に現れた博士に言葉を投げかけたマーシーに、その時見せた博士の微笑が、なぜかマーシーのそれと重なって見えた。 「ああ、つい先ほどね、だが、もう帰るところだよ」 マーシーに背を向けたそのまま、博士は白衣をたなびかせて、扉をくぐり出た。 チリン、と寂しげなベルの音を鳴らして。 「はか…」 博士、と言おうとしたマーシーだったが、後ろから裾をグンと引っ張られ、遮られた。 振り返ってみれば、それは玲奈だった。 「マーシー、博士を追うわよ!」 裾をそのまま引っ張り続け、玲奈はスタスタと博士の出た扉をくぐる。 「あ、お勘定はその男につけといて!」 そう言うことだけはきっちり忘れずに。 男はただ、茫然とそこに座り込んでいた、声をかけられるまで。 「あの、速水店長…どうしましょう」 声をかけられて従業員に振りかえった男、速水はぶぜんと立ち上がると、 「どうしようも、こうしようもあるかい、店は通常営業や、とっとと持ち場にもどらんかい」 そう言ってさっさと皆を戻らせた。 「あれは、ほんまに人間…やったんか?」 誰もいなくなったホールに、その言葉を残して。
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