恋 愛 発 明 家

変人奇行行進曲

 

第八節

 

 

 

 

 

 

一瞬の出来事だった――。

 

 

少なくとも玲奈にはそう思えたし、もしかしたら数十分だったのかもしれない、と思えるほどの瞬間だった。

 

マーシーの振りかざした拳に、玲奈は精いっぱいの制止を叫んだと思う。推定なのは、もう記憶にないからだ、何を言ったのかも覚えていない。

 

ただ、マーシーを自分は止めることができなかった。

止めたのは、玲奈にとっても、マーシーにとってもよく知る、彼女の声だった。

 

「マシーナリーエージェント1.0、緊急(エマージェ)命令(ンシーコード)だ」

 

空から声が降ってきた。

 

「は、博士!?」

 

喫茶店の二階から白衣をはためかせ、一週間前にはあった眼鏡を外し、颯爽と現れた彼女は、そこにいるのが当然という風にすたすたと階段を下りて現れた。

 

「博士!いつからそこに!?」

 

玲奈の言葉に博士は答えなかった。いや、今は答えられないという風に、玲奈を一瞥してそのまま息を吸い込みマーシーを睨みつけた。

そして、放った。

 

「2452245F244E243324482450244F2446242F245E246424332473…っ」

 

「ええっ!?」

 

玲奈にはさっぱり意味わからない英数字を言い切った後、吐ききった息を整えるために深呼吸をすると、今度はひどく悲しげな目でマーシーに告げた。

 

「そのつかんでいる人を放しなさい」

 

『イエス、マスター』

 

ボタリ。

 

マーシーの手から落とされた男は訳が分かるわけもなく、現れた女性と、玲奈とマーシーを見比べて茫然としていた。

それを見て、玲奈は安心して息をつくと、マーシーの声音や動作の不自然さに気づいた。

あの、穏やかな口調も、常に微笑んでいる笑顔も、今のマーシーにはない。ただ無表情に虚空を眺め、次の命令を待つ人形のように固まり、動かずにいる。

 

「博士…、マーシーどうしちゃったの?」

 

博士は応えなかった、ただ答えの代わりに、言葉を吐いた。

 

命令(コマンド)解除(リリース)だ」

 

とたんだった、マーシーはその言葉に反応を示したように、きょとんとした『表情』を表わすと、すぐさまそばにいる博士に気がついた。

 

「博士、いらしていたのですか」

 

まるで何事もなかったように、ただ目の前に現れた博士に言葉を投げかけたマーシーに、その時見せた博士の微笑が、なぜかマーシーのそれと重なって見えた。

 

「ああ、つい先ほどね、だが、もう帰るところだよ」

 

マーシーに背を向けたそのまま、博士は白衣をたなびかせて、扉をくぐり出た。

チリン、と寂しげなベルの音を鳴らして。

 

「はか…」

博士、と言おうとしたマーシーだったが、後ろから裾をグンと引っ張られ、遮られた。

振り返ってみれば、それは玲奈だった。

「マーシー、博士を追うわよ!」

 

裾をそのまま引っ張り続け、玲奈はスタスタと博士の出た扉をくぐる。

 

「あ、お勘定はその男につけといて!」

 

そう言うことだけはきっちり忘れずに。

 

男はただ、茫然とそこに座り込んでいた、声をかけられるまで。

「あの、速水店長…どうしましょう」

声をかけられて従業員に振りかえった男、速水はぶぜんと立ち上がると、

「どうしようも、こうしようもあるかい、店は通常営業や、とっとと持ち場にもどらんかい」

そう言ってさっさと皆を戻らせた。

 

「あれは、ほんまに人間…やったんか?」

 

誰もいなくなったホールに、その言葉を残して。

 

 

 

 

 

 
第八節  終