番外 序曲 始まりの音 <久賀>





 スタスタスタ…



 みのりの家を飛び出した久賀は、ただひたすら早歩きをして住宅街を突き進む。
 薄茶の前髪から覗く瞳は、明らかにイラついていた。

 そのせいか、足元の小石にけつまずく。

「くそっ」

 けつまずいた小石に悪態をつくと、思い切りそれを蹴飛ばすと

 パシッ

 綺麗な円を描き、宙に投げ出された小石を、見事にキャッチした人間がいた。

「ナーイスピッチングだよ、達也くん」

「いや、蹴ったんですけど」

 そうして、久賀の目の前に現れたのは、みのりの父であった。

「てか、なんで先に出た俺の先回りが出来るんですか?」

 うろんげに尋ねる久賀に父は自信満々に

「何をいまさら、私だからに決まってるじゃないか」

「…そうですか」

 これ以上聞いても、何一つ自分の聞きたい事を聞ける気がしない久賀は、早々に問うのを諦めた。 
 そして、苦笑すると

「あらためて、お久しぶりです。おじさ…いえ、師匠」

「やめなさいって、もう5年も昔のことだろう、それにその敬語どうしたの?さっきと全然違うよ、むず痒くなるから止めなさい」

 そう言って、ぼりぼりと頭を書く父に、久賀は眉間にしわを寄せ。

「あなたの前だと、ついつい、したくなくてもそうなるんです、…まあ、さっきまではそんな余裕も無かったですけど」

 皮肉ったつもりだったが、みのりの父にそんなものが通じるわけも無く

「はっはっはっ、いや、照れるねぇ」

「別に、褒めているわけじゃ…」

 冷や汗をかきながらも、やっぱり話が通じて無かったことに久賀は戦慄を覚えた。
 そんな事には気づかない父は、朗らかに笑うと。

「しかし懐かしいねぇ。初めてキミに会ったのが、えーと…」

「12年前です。あの時、助けていただいたことは今でも覚えてますよ」



 ――5歳のときだ。

 久賀が、初めて誘拐と言うものを体験したその日である。

 突然、見知らぬ男たちに車に押し込められ、どうにも出来なくなったとき、現れたのはこの男であった。
 男はあっという間に、久賀なぎ払い、到底子供に見せることのできない、大人でもトラウマに残るお仕置きを男たちにした上で、颯爽(?)と久賀を救出したのであった。

 それ以来、久賀の両親に、その腕を見込まれたみのりの父は、久賀の護身術の師匠として7年間、鬼のような訓練を強き、久賀を何度か半殺しにしながらも、無事育てたのであった。
 彼が何者か、久賀自身は知らない。ただ…

『あのときのことは、忘れたくても忘れるわけがない』

 いい意味でも悪い意味でも、そのころの記憶を、久賀は決して忘れないだろうと、心に刻み込んでいた。
 まぁ、以来、そのおかげで誘拐されることも無くなり、突然襲われる事があってもみのりの 父の情け容赦ない修行よりも、果てしなく生ぬるく感じるようになったことは、両親の思惑通りなのかもしれなかった。

「あれから5年。どうだい達也くん、みのりは?すっかりわたし似の美人になっただろう?」

「…ノーコメントでいいですか」

 その久賀の反応をどう捕らえたのか、みのりの父は「はははっ」と笑うと

「しかしねぇ。まさか君たちが、本気で婚約したくないと言うなんて、まさか…」

 みのりの父は苦笑しながら首をふると、真顔で久賀を見据え


「今すぐ結婚したいとか?」

「違います」


 きっぱりと、否定する久賀。
 そして、この阿呆な問いかけで今まで溜めに溜めていた怒りを、一気にぶちまけるように久賀は、父に詰め寄った。

「だいたい…、一体なんなんです、これは?なんで俺がいきなり通学途中にチョークスリーパーをかけられた挙句、ロープで縛られて、おじさん家で転がされなきゃいけないんです!?」

「た、達也くん?」

「その上、みのりには、いきなり『みの虫』呼ばわりされるわ、それから女子高!?冗談じゃない!昆虫あつかいで、『変態』呼ばわりされた俺の気持ちが、あんたに分かるんですか!?」

「いや、わたしも急かなー、とは思ったんだが…」

「急なんてもんじゃない、無茶苦茶だ!?そもそも…、あんな子供の時の事を持ち出されても、困るに決まってる!」

 そう言いきった久賀に、父は「おや?」という顔をすると

「達也くん。困ってたの?」

「……気づいてくださいっ!」

 怒鳴る久賀に、父はきょとんとした顔をすると、次にニヤリと笑う。

「な、なんです、その気持ち悪い笑い方は」

「いや、べつにぃ。ただ、だったら何で達也くんは、後生大事に『子供の時』の約束の手紙をいつまでも持っているのかなぁって」

「!?」

 「それは…」と口を開く久賀を制し、父は話を続けた

「分かってる…、だれでも子供の頃の思い出は、取っとくものだし、綺麗なものなら、なおさら大事にしたい気持ちも…分かるつもりだよ」

 うちの娘は、ものの見事に忘れてるみたいだけど。
 苦笑しつつも、それなりの分別を持った大人の顔をして語るみのりの父。

「おじさん?」

 そんな彼の表情に釣られるように、首を傾げつつ、父を見る久賀。


 が―――


「ただねぇ」

「!!!」


 みのりの父が、ふいに微笑んだ。
 その笑いに、詰め寄った間合いを空ける久賀。
 久賀の判断は正しかったようで、間合いを詰めるように、父は右半身に体を傾けた。

(げっ)

 その構えは、常に父が護身術の訓練をする際にしていた、構えである。
 ごく自然体に近い構え、だが、どの攻撃にも体重移動だけで対応できる、彼一流の構えだ。

 なぜ?そう思う瞬間に、間合いの空けたその空間は、瞬時にして詰まった。

「……っ!」

 まさに至近距離にいる、みのりの父。
 瞠目する久賀の耳に囁くように

「きみは、あの子が泣いているのを見たことがあるかい?」

「は…?」

 みのりの父の言葉に促され、脳裏に浮かんだのは、みのりと自分が別れたあの時のことだった。
 彼女はすっかり忘れていたみたいだが、久賀はあの時の事を、鮮明に覚えていた。

「わたしはね、後にも先にも、物心ついてから、あの子が泣いたのを見たのは、あれが初めてなんだよ」


 そう言うと、父は久賀の鳩尾に徒手空拳を浴びせた。

「は…っ」

 突然に襲われる横隔膜への圧迫に、久賀の意識が遠のく。
 うつろな意識の中、おぼろげにみのりの父言葉が自分の耳を掠めた

 朦朧とした頭の中で、久賀は、その言葉の意味を考えることは出来なかった



 ただ思ったのは。



(また、このパターンかよ…)



 久賀の意識は、そこで途切れた。







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