9.思い出と忘却
あれは、いくつの時だろう――
それが、どんな場所で、何のためにいるのかは、分からない。
ただ、だだっ広いお屋敷の庭の中に、あたしと父はいた。
『どうしてあたしたち、いっしょにいられないの?』
あたしは、父の袖を引っ張り涙ながらに訴えた。
『仕方ないんだ、みのり。さぁ、彼にお別れを言いなさい』
かすむ目で、あたしは振り向く。そこには、男の子がいた。
その男の子も同じで、目に涙をためて、あたしのほうを見ていた。
草むらみたいな、緑色の目があたしを見て、こう言った。
『忘れないで』
僕のこと、忘れないで。
そんな男の子に、あたしは結局、お別れの言葉は、言えなかった。
そのかわり…
『忘れないもん、だから○○くんも、約束を忘れないでねっ!』
男の子は「約束」と呟くと、その胸に握り締めている紙を強く握り
いつも、遊んでいたときと同じように、優しく微笑み返してくれた。
***
「どういうことよ、コレは!?」
あたしは、父に手渡された紙を握り締めながら、父とみの虫を見る。
「どういうも、なにも、お前達が子供の時に書いた、誓約書じゃないか」
…………………は?
なんか今、トンデモナイコトが聞こえたんですけど?
えーと、『お前達』?
それって…みの虫と、あたしってこと?
「はあっ?」
あまりにビックリしすぎて、自分でも訳のわからない声が出た。
そして、目が点になったままのあたしは、父を呆然と見て
「子供の時…って、ちょっと待って、意味がよく分かんないんだけど」
冷や汗だか、脂汗だか、もう何がなんだかの汗をかいてる。父はみの虫を小脇に抱え、私を困ったように見ると。
「お前、本当に分からないのか?」
「だ・か・ら、聞いてるんでしょ!」
手に持った例の紙切れは、握り締めすぎて、私の手の中でボロボロになっている。
その紙を、父はいつの間にやら、私から取り返すと、ピラリと見せて
「ほら、ちゃんとお前の筆跡だし、証拠、証拠」
「だから、そんな事聞いてないっ!!ていうか、子供の時の筆跡なんて知らないわよ!」
「むぅ、まさかこんなところで『みのり成長日記』が役に立つときが…」
「出さなくていいっ!!」
いそいそと、極太アルバムを取り出す父を制すと、埒があかないので、今度はみの虫の方を睨んだ
「あなた、知ってたの?」
アルバムを取りに行った時、ようやく開放されたみの虫が、こちらの問いかけにフイとそっぽをむくと「何がだよ」と呟いた。
「あたしの事よ。あなた、あたしにあの紙切れを渡されたとき『見るな』って言ったわよね。つまり、私と、あなたが子供の時に書いたって言う、あの妙な約束のことを知っていたんでしょう?つまり、お父さんと一緒になって、このわけの分からないことに加担してたのね」
「ちょ、ちょっとまて、加担なんかして…っ」
「ばかばかしい、あんたのふざけた作戦ってやらに振り回されたのは、何だったのよ」
あ、言ってて本当に馬鹿らしくなってきた。
捨て置かれ、いまではなんの意味もない父へのプレゼントを横目に、あたしはため息をつく。
「おい」
「なによ」
怒りをそのままに、あたしはみの虫を睨む。
そのあたしの形相に息を飲みながら、みの虫は
「おまえ、本当に何一つ覚えてねーのか?」
何をいまさら…
「何か、一つでも覚えてたら、知っていたらねぇ、こんな馬鹿ばかしい茶番に付き合ってないわよ」
そして、あたしは、未だに未練がましくアルバム見つめている父をちらりと見て、視線をみの虫に返した。
「ねぇ、あなたと私は父の言うとおり、本当に会ったことあるの?それで、あの紙はあたし達が子供の頃に書いたっての言うのは本当なの?」
尋ねた私の言葉に、みの虫の眉間に皺が寄ってゆく。
「知らねえ」
「…へ?だってさっき…」
「知るかよ、おめーみてぇな『ブス』一度でも会ったことあるなら、忘れるわけ無いだろ」
「んなっ!!」
ま、また言いやがった、こいつっ!
あたしが、顔を真っ赤にして怒鳴り返そうとすると、みの虫は床に落ちていた例の『誓約書』やら、なんだかを拾いあげると。
「俺の目的はもう終わったから、帰る」
「ちょ、ちょっと!」
待ちなさいよっ!と、あたしが叫ぶまもなく…みの虫は、あたしの家から出ていった。
「…って、あんた、自分の家財道具どうすんのよーーーっ!!!」
廊下に放置されたままの、みの虫のベッドや箪笥を指さして叫ぶあたしの声は届かなかったのか、その日、再びあたしがみの虫を見ることは無かった。
「結局…、これでもとの生活に戻れるってこと?」
シンと静まり返った、我が家の中で呆然と呟くあたし。
しかしその隣では、
「ふぅむ…」
意味深に呟き、みの虫の出て行った方を見つめる父の姿があった。