西垣先生の憂鬱








8.



「はーい、先生。一杯ドーゾ♪」

「いやー、すまんね〜」


 並々とビールが注がれてゆくのを赤ら顔で調子よく眺めている。

 周りの空気もほとんどそのようなもので、旅館の大広間でのどんちゃん騒ぎは当分の間収まりそうに無い。

 それもそのはず、今日は一年に一度の医局旅行。

 参加者の誰もが普段のストレスを発散させるため、いつもの冷静な仕事の仮面を取り払っているのである。
 
 隣に来た同じ局の看護師もすでにできあがっている風で、俺にもたれかけ、半分ほど空になったビールを飲み干している。


「あーでも、残念です。入江先生もせっかくだから参加して欲しかったのに〜」

 
 ぴくっ。


 隣で飲む看護師の言葉に、機嫌良く飲んでいた俺のこめかみが動くのが分かる。

「そーいや、入江さんも来てないわね。あの子、あんなに医局旅行楽しみにしていたのに」
 
 ぴくぴくっ。

 またしても、過剰に反応している自分。

 そして、注がれたばかりのビールを一気にあおった。

「ったく、入江入江ってあいつのどこがいーんだか」

「あら、やっぱり格好いいですし、優秀な医者だからじゃないですかあ。私も好きですよ、入江先生」

「それだけだろ。俺の方が優しいし、センスがあるし、なによりあいつは既婚者だ」

「そこが、またいいっていう娘もいますよ」

「嫁さんが同じ局にいるのに?」

「でも、夫婦って感じがしないんですよねえ、あの2人って。入江さんの片思いって感じで」

「それがますます気に入らん」

 注ぎ足してくれたビールを再び煽る。だんだん視界も思考もゆがんできているのが分かったが、どうにも酒のほうは止められそうない。

「そう言えば。先生最近、琴子さんにちょっかいかけてるって、噂出てますけど、あれ本当なんですか」

「生憎、今のところ全敗だけどね」

「ああ、だから焼きもち、やいてるんですね、先生。結構かわいいとこあるんですねえ、こいつぅ☆」

 あはは〜、と言う彼女も相当酔っぱらっているんだろう。もう、何がなにやら訳が分からない。

「焼きもち?入江にか?じょーだんじゃない、そんなんじゃなくてね、僕あねえ…僕は…」

 酔っぱらったまま、俺は気持ちよく倒れ込んだ。

 側にいた、田中くんの声を遠くに感じながら、猛烈な眠気を感じて、そのまま身を任せた。

 
 あれ、何をいっていたんだっけか、餅、ああ、そうだ焼き餅がどうだっけ…


 ぐるぐる回る思考の中で、琴子ちゃんが入江の為に涙目になって訴えてきた時を思い出す。


 あんな無愛想で、そのくせ外面だけはよくて、指導医を指導医とも思わない酷い男でも。あの琴子ちゃんを復活させることが出来るのは、あの男だけなんだろう。だから…



 そして、まどろみながら、田中くんの言葉も反芻した。



『焼きもち、やいてるんですね』



 ―――たぶんねえ、そうじゃないと思うんだ。



 嫉妬とか、そんなドロドロとしたものじゃなくて、ただきっと、君のような娘が僕の側にもいてくれたらいいのになあ、なんて柄にもなく思ってしまっただけなんだよ。



 そうして、気持ちよく眠りに着いた翌朝。

 とんでもない事件が俺を待ち受けていた。



9.




「―――と、まあ。あの時ほど、本気でお前の指導医をしていて後悔したことは無かったなあ。いや、あの後もいろいろ大変だったけど、お前、教授方にたてついて、どんなに俺の寿命が縮んだか分かってるか?」


「…で、何が言いたいんです」


 数ヶ月前にあった、医局旅行中の独断手術の事件を今更取り出してまで、何を。
 
 そんな風に、ため息をついて、俺の目の前のいけ好かない男は、ガウンを脱いで胡乱気にこっちを見た。

「いやあ、迷惑をかけている指導医のために今夜コンパ…」

「行きません。帰って寝ます」

 以前の尻ぬぐいさせられた一件を引き合いに出しても、即答された。
 
 しかし、即答されても以前のようにムッとするようなことはない、代わりににやりと笑ってみせる。

「分かってるよ、言ってみただけだ。最近お前、長いオペが続いてるからな。しっかり休んどけ。それじゃ、お疲れさん」

「…お疲れ様です」

 いつものような、いまではすっかり慣れた日常。
 
 医局旅行の事件以来、琴子ちゃんも、入江も特段病院を辞めることも移動することもなく、相も変わらずの日常を送っている。
 
 俺といえば、何かを確認するように入江の前で琴子ちゃんを口説いて見せて、怖い顔で睨まれ、コンパで可愛い子を見かけては、食事に繰り出す日常。

 
 穏やかに見えていた、俺の周り。


 そうしていつもと同じように仕事が終り別れた入江の背中を見送ると、俺も今夜のコンパの為にいそいそと着替え始めた。




10.



 ―――それは、そんな翌日の夜だった。


 その夜は、やたらと患者が急変することが多く、ようやく一息つけたと、詰所でコーヒーに口をつけよう…そんなタイミングだった。


「に、西垣先生っ!」

「うおっ」


 呼びかけた看護師に驚いて、コーヒーを吹く。
 
 だが、看護師はそんなことには目もくれず、俺に叫ぶ。

「急患です!オペ室に急いでお願いします」

「またか…、今日は多いな…」

 つい先ほど終らせたばかりの手術着のまま、俺はがっくりとうなだれた。

 勘弁してくれ、とぼやきたくもなったが、患者の命がかかっている場面でそんなこと思えるはずもない。

「ったく、…そうだ。なんか忙しいと思ったら、入江のやつが居ないじゃないか。あいつ、どこほっつき歩いてるんだ」

 代わりに、鉄面皮の研修医に愚痴って見せた、…のだが。


「だからっ!」


 目の前で看護師が弾かれたように叫ぶ。

「入江先生なんです!」

「なんだ、居ないと思ったら、入江が先に行っているのか」

 それなら先に言ってくれ。そう言おうとして、その必死な声に遮られた。

「入江先生が、急患なんです!!」

「は…?」

 意味が分からなくて聞き返した。


「だから…っ、入江先生が階段から落ちて、意識不明なんですっ!」


 そのとき、やけにその看護師の声がゆっくりと俺に染みいった。


「西垣先生、急いでください!」

 涙目で訴える看護師。



(ああ、きっとこの娘も入江を好きな娘の一人なんだろう)





たぶん、俺は、場違いなことに、そんなことを考えていたんだと思う。






7へ続く

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なかがき


少しくらいクライマックス的な感じで(笑)
ここまでお読みくださりありがとうございます。

次回でどうにか予定どおりの最終話となります(まだ推定)。