西垣先生の憂鬱






1.


「西垣センセ〜。今晩お暇ですかあ」

「あぁ、田中くん。何、食事のお誘い?いーよ、行こうか」

「わあ、それじゃあ、行ってみたいフランス料理店があるんです」


 仕事が終り、病院のロビーをくぐり抜けるところで、看護師の女性に誘われた。

 すでにいつもの白衣ではなく、春色のコートに身を包んだ彼女はぼくに追いつくため小走りで隣までやってくる。

 そんな彼女に見えないように苦笑する。ぼくはどうやら誰かの代わりにそのレストランへ行くための財布らしい。

 予約もなしでフランス料理へ行こうとは普通思わない、ということはそういうことだろう。

 まあ、女性は大好きだし、美人とくればなおさらだ。

 にこやかに笑う隣の女性にこちらも笑みを返し肩に手をかけた。


 ドンッ!


「うわっ」

「った〜!はっ、すみません、すみません!怪我無いですか!?」


 まるでイノシシにでも激突されたように、思わずよろめいて、向かってきたものを受け止める。

 受け止めたものは当然イノシシではなく、人間。しかも女性だった。

 平身低頭で謝る彼女を、興味をもってのぞき込んだ田中くんが、あっというふうに声を上げた。


「入江さん?あなた今日確か5時入りじゃあなかった?今、6時だけれど…」

「ああっ、田中先輩!そ、そうなんです〜!だからすみません、あの、先急ぎます!」


 バヒュン。まさにそんな擬音がぴったりくるような勢いで、俺の腕から離れると、全力で病棟を駆け抜けた。


「あっ、こら入江さん!病棟は走るなって…、もうっ、清水主任にまた怒られるわよ!」


「す〜み〜ま〜〜せ〜〜〜ん〜〜〜〜っ」


 フェードアウトしながら全力で謝る彼女にポカンとなる。


「なに、田中くん。彼女のこと知ってるの?」

「え?ああ、入江さんですか?先日第3外科に入った新しい看護師ですよ。看護学生時代からドジで有名だった娘で、ほんと、どこに配属になるか看護師内で一時騒然だったんですけれど、まさかうちの科に入るなんて…」

「へえ、そういえば聞いたことあるかな」

「まったく、旦那さんの入江先生はあんなに優秀な先生でらっしゃるのに」

「結婚してるんだ?けど、入江なんて医者うちにいたかな?」

「旦那さんは今、神戸のほうにいるそうですよ、なので彼女も神戸行きを希望したのですけれど、欠員無くて」


 神戸に行ってくれた方がどんなによかったか。


 言外にそういう風に聞こえるため息をつく彼女に苦笑して、再び歩みをすすめる。

 吹き抜けた春の風が妙に心地よい。

 さながら、この突風のような少女だったと、さきほどの彼女を思い出す。



 医者と看護師とはまあ、大変な夫婦だ。
 おまけに、旦那のほうは神戸という、とてもとても遠い場所にいるらしい。



(あの娘が人妻ねぇ。どれ、たまには食指を変えてみようかな)





今思えば、このつまらない好奇心が、自分の災難を引き起こすともつゆ知らず…。











2へ続く

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あとがき

ここまで読んでいただきありがとうございます!
はい、久しぶりに見切り発車小説はじめました。
この時点で、自分にも落ちが分からないという極限状態(笑)
一応全七話となっているにもかかわらず、どうなるのかまっったく分かりませんが、
しばらくおつきあいいただけると嬉しいです。