「キスしてください…直樹さん」
その日の天気予報は、今夜一晩降り続ける雨だといった――
やまない雨
1.
「お兄ちゃん、今日も出かけるの?」
「ああ」
今日、入江は沙穂子と美術館展を見に行こうとしていた。
先日沙穂子さんが見に行きたいと言っていた、西洋美術館の「メトロポリタン美術館展」である。
「まったくもう!今日こそは早く帰ってらっしゃいよ、天気予報で今日は夜から雨らしいし」
「わかったよ…」
そういって、さっさと出かけようとする直樹。そして、琴子の姿が朝から見ていないことに気付いて
「琴子は?」と尋ねる
すると、入江ママはいやみっぽく
「琴子ちゃんも朝からデートよ、かわいくおめかしして、出かけたわよっ」
そう言うと、フンとそっぽをむいた。
直樹は
(また、デートかよ)
と、なんだか無性にムッとする気持ちをどこかに追いやり
「じゃあ、行ってくる」
と言って、俺は入江家の玄関を出た。
2.
呼んであったタクシーにのり、沙穂子さんと待ち合わせの場所に向かう。
沙穂子さんは、すでに待ち合わせの場所で、立っていた。
そんな彼女をみて、おれは思わず、足を進めようとして…ひたり、と彼女の方へ行く足を止めた。
―彼女に不満があるわけではない、むしろ彼女は俺の理想のままの女性だ。
だけど…
沙穂子さんが微笑むたび、琴子の泣き顔がよみがえり、俺の胸に、誰かに攻められるような圧迫感をうえつける。
沙穂子さんが俺に話し掛けるたび、琴子の、バカに明るい声が耳に残っているような錯覚に陥らせる。
ばかばかしいと思いつつ、彼女と琴子を比べる俺がいた――
比べるものでももなく、俺は沙穂子さんを選んで、琴子は…
「あっ、直樹さん」
彼女の数メートル手前で立ち尽くす俺を、彼女の方が見つけ、こちらに駆け寄る。
『入江くーーんっっ』
――瞬間、駆け寄る沙穂子さんが、琴子に変わる。
「直樹…さん?」
ビクリとして、俺は彼女の方を見る。沙穂子さんだ…。
「あ、それじゃあ行きましょうか、沙穂子さん」
ニコリ、そう微笑むと、俺は沙穂子さんをエスコートする。
彼女がどこか遠くを見てるのにも気付かず―――
3.
なんてこった…。
今日は厄日か――?
俺は、思わず雑踏の中で空を仰いでため息をつきたくなった。だが、あいにくこの人ごみの中で、首を上げることも出来なければ、見たいと思う空はビルの合間に隠れて、あまりに高いところにあった。
沙穂子さんと、美術館へ行く道すがらに、表通りの道を歩いていると、偶然にも、向こう側から歩いてくる琴子達を見つけた。
休みの、しかも人の多い東京で、それでも琴子を見つけられる自分を恨めしく思った。
しかも、おあつらえむきに、金之助も一緒に…。
幸いな事に、向こうはどうやら、こっちのことに気がついてないようだ。
俺は向こうに気付かれないうちに、とっとと、場所を移ろうと
「沙穂子さん。あちらの道は込んでますから、回り道しましょうか」と、言おうと思った瞬間。
「あら…?」
と、首をかしげる沙穂子さん。
そして
「琴子さん?」
前にいた、琴子達に気づいて声をかけた。
……おいおい、勘弁してくれ。
俺の心のため息とは裏腹に、沙穂子さんの呼び声に気付く琴子達。
俺たちを見るや否や、嫌そうな顔をする琴子。
俺は、無表情な顔を装っていても、心の中に重いものが落ちていた。
そんな俺の事などつゆ知らず、沙穂子さんは、琴子達に話し掛ける。
「あ、もしかして、デート中だったのかしら?」
無邪気な顔で、質問をする沙穂子さん。
肯定する琴子。そんな琴子にますます苛立ちを隠せない。
琴子なんて無視をしていればいいのに、口は勝手に琴子と金之助をバカにする言葉ばかりが出た。
「――ったく、お似合いだよ。お前ら」
その言葉に傷ついた顔をして、走り去っていった琴子と同じように、なぜかその言葉は俺の心に深く突き刺さった。
「直樹さんったら、どうしたの?直樹さんらしくないわ」
そう、心配そうに見る、沙穂子さんに、俺は静かに彼女の方を見た。
俺らしくない?
俺らしいって、どんなんだ?
「俺らしく…ないですか」
「直樹さん…?」
自嘲するように、笑う俺を見て、沙穂子さんは不安そうに俺を見た。
上品で、頭もいい、間違っても好きな男に脅迫まがいのことや、テニスのラケットを顔面にぶつけたりなどはしない。
そんな女性を俺は選び、琴子はあいつに見合う男を選んだ。それだけのことだ。
…俺は、いまだ不安そうに見上げる沙穂子さんに、薄く微笑むと
「大丈夫。沙穂子さんには、あんなこと言いませんよ」
そう言って、彼女の肩に手をかけた…。
4.
ぽっ…、ぽつ…
ぽつり…、ぽつり…
サァァァ――――…
「あら、雨かしら」
すっかり夜もふけ、夕食をレストランで済ませた俺たちが外に出ると、夜の闇の中、じっとりと雨が地面を打っていた。
雨は地面から勢いよくはね、その音で周りの雑然とした音も鈍らせるほど、したたかに音を立てていた。
「困りましたね、ちょっとまって下さい。すぐに沙穂子さんの家に連絡して、迎えに来てもらいましょう」
「ええ。すみません、直樹さん」
「いえ…」俺はそう言うと、店員に電話を借りるため、店内の電話まで案内してもらった。
…雨、か――
俺はその雨音に耳を傾けながら電話のダイヤルを回していた――
『わぁ、雨だよ、入江くん』
『ああ』
『入江くん、今日は傘持ってなかったでしょ。なんなら、一緒に傘に入れてあげても…』
『…濡れるほうがましだ』
『ま、まって、まってーーっ!あ、あたし実は二つ傘持ってたんだった!これ、貸してあげるねっ!返すのはいつでもいいから…あ、でも絶対入江くんが返しに来てね!!じゃ、あたし用事があるから、先帰ってて、入江くん…えっ?』
『さっさと、傘に入れよ、俺のせいで風邪引いたなんて、あとで言われたくねーからな』
『ええっ!ほんとにっ!?』
『ほら、早く来いよ、置いてくぞ』
――俺が傘を開いて促すと、琴子は笑顔で駆けよってきた。
ガチャンッ!!
電話で車を手配した俺は、乱暴に受話器を戻した。
フトした瞬間に、琴子のことを思い出し、こんなにも動揺する自分が、いらだたしかった…
6.
「…それでは、沙穂子さん。今日は楽しかったです」
俺は沙穂子さんを、家の前まで送り届けると、にこやかに別れのあいさつを口にする。
「ええ…、わたしも楽しかったです」
沙穂子さんがそう返したあと、そのまま、その家の門をくぐり出ようとし…
「直樹さん」
静かで…、どこか切羽詰ったような、沙穂子さんの声に、俺は思わず振り返った。
すると、沙穂子さんは、俺の前まで駆け寄ってきた。
門の付近には屋根がない。俺は沙穂子さんが雨で濡れるのを避けるため
「風邪を引きますよ。お話は、また明日にでも聞き…」
「止めてください…っ」
「え…?」
突然の静止に、俺はただ驚き、沙穂子さんを見つめた。
「あたしは、直樹さんに…そんな風に言ってもらいたくありませんっ」
「沙穂子…さん?」
意味が分からず、彼女の名前を呼ぶが、彼女は何も言わない。
ただ、心なしか、彼女の肩が震えているのが分かった。
沙穂子さんの言いたいことが分からない俺は、黙って次の言葉を待った。
――どのくらいたったか…
彼女の髪先に雨の雫が滴り落ちる頃、彼女は伏せていた瞳を静かに俺に向け、こう言った。
「キスしてください…直樹さん」
突然のことに、俺は目を見開き、彼女を凝視する。
沙穂子さんの瞳に映った自分の姿は、あくまで冷静なようだった。
キスくらい…、そう思う自分と、そこから一歩として動けそうにない自分の気持ちがあった。
なぜ出来ないのか…、その理由はあまり深く考えず、考えることも放棄し、俺はそのまま彼女の前に佇んでいた。
すると、沙穂子さんは、どこか諦めたように、肩を落として俺に尋ねてきた。
「私は…、直樹さんの婚約者ですよね?」
「ええ…」そう答えた俺に、彼女は薄く微笑むと
「琴子さん」
そう呟く。なぜだか、その名前を言う彼女の唇は震えていたようだった。
だが、それは一瞬のことで、次には彼女は思い出し笑いをしていた。
「ふふ…、今日、琴子さん、すごくかわいらしくって、幸せそうで…、きっと…好きな方と一緒にいらっしゃったからですね」
なぜいま、琴子の事を?
突然降って沸いた琴子のはなしに「そうですか?」と、どうでもいいようなそぶりで相槌をうつ。
そして、あいも変わらずバカなあの二人を思い出し、またもや胸がムカツクの押さえるようにする。
そんな俺をしばらく見つめた彼女は
「ええ。きっとそうですわ、きっと…」
と、自分に言い聞かせるように何度も呟いた。
徐々に尻すぼみになる彼女の言葉は、それから突然、元気を取り戻し、ニッコリと笑うと。
「こんど、本当に琴子さんたちと一緒にお出かけしましょう。もちろん、お相手の方もご一緒に」
「え?」
琴子や金之助と?
はっきりいって、あまり願いたくない組み合わせだった。
だが沙穂子さんはそんな俺に気づかず、家の玄関まで駆け上がり、そして、身にまとった雫を散らせ、こちらを振り返った。
「そうしたら、私たち。琴子さんに負けないくらい幸せに見えるかしら」
雨に濡れた彼女の微笑が、泣き笑いのように見えて…
「おやすみなさい…」そう言って、玄関の扉の向こうに消えた彼女に、結局、俺は何もいえなかった。
彼女を見送った俺が、ため息を抑えるように、夜空を仰ぐと
雨はすっかり止んでいた。
けれども…
俺の目に映るその空は、決して雨が降り止むことはなかった
止まない雨に、誰もが晴れない気持ちを抱えている
今日は、なぜかそんな夜のような気がした
5.<それから>
バタバタバタ…ッ!
「ひぇぇーっ!も、もうこんな時間―――っ!」
「いーかげんにしろっ!…ったく、はやくしろよ、でないとおいてくからな」
慌てふためく足音と、絶叫にちかい声が響き渡り、入江はついに我慢できなくなり叫んだ。
「待ってー!だ、だって、髪がちゃんと決まらなくて…っ」
そう言って、涙目になっている彼女に、うんざりするように、にらみつけると
「いーから、早く来いっ、琴子!」
「あーーっ」と絶叫する琴子を引きずるようにして、車まで乗せると、自分もその隣に座った。
そして、運転手に、車を発進してもらうように頼むと、今度は隣の琴子を見る。
いまだ、髪が決まらなかったのを気にしてか、どんよりと落ち込んでいるのを見ると、入江はため息をつき。
「ったく、ほら後ろ向け」
「え?」
そう言って、琴子を、くるんと後ろを向かせると、入江は琴子のほつれかけている髪をほどいた。
「いっ、入江くん!?」
いきなり、一時間もかけた髪をほどかれ、ぎょっとする琴子。だが入江はそんな琴子を無視して、丁寧なしぐさで髪をすくっていく。
「変にこった髪型にするから、すぐに崩れるんだろ、適当にまとめてやるから、じっとしてろ」
「…うん」
そう言って、琴子は黙りこくった。
いつもよりも幾分(あくまで幾分)大人しい琴子に、入江は片眉を上げた。
「どーしたんだよ、ガラにもなく緊張してねーか?」
「緊張するに決まってるじゃないっ!だ、だってあたし、あれ以来、会ったこと無かったし…。ねぇ、入江くん、ほ、ほんとにあたしも行ってもいいの?」
「いいも何も、彼女がお前にも送ってきたんだ。いいに決まってるだろ」
「だけど…」
言いよどむ琴子。そう言った二人の格好はまるきり、どこかのパーティに行く姿になっていた。
琴子は、薄い生地を3枚ほど重ねた、落ち着いた色のドレスを身につけ、入江はフォーマルな黒のスーツを着ていた。
「こんなもんだろ」
そう言って、入江は琴子の髪を結い上げると、スーツの内ポケットから、2通の封筒をだした。
封筒のあて先にはそれぞれ「入江直樹 様」・「入江琴子 様」と書かれている。
そして、封筒の裏には、かつて入江が覚えている、変わらない丁寧な文字で「沙穂子」と名前が記されていた。
それは結婚式の招待状だった。
文面は、ワープロで簡単に結婚の報告と、結婚式会場の案内が書かれていた。
琴子の方にも同じモノが届いていた。
それは、二人にも驚きの報告であったし、何より嬉しい便りだった。
そして、今日。
二人は彼女の結婚式に参加すべく、今、車に乗り込んで目的地まで向かっていたのである。
入江がまとめた髪に「ありがとう」と言う琴子に「どういたしまして」と、皮肉っぽく返すと、入江は自分宛の招待状をはじめて開けた時のことを思い出した。
琴子の招待状と同じ文面。
だけど、その下に彼女の文字を見つけ、思わず苦笑した。
『わたし、今度こそあなたに、琴子さんに負けないくらい幸せそうだって、言わせてみせますから、ぜひ琴子さんといらしてくださいね』
それは、かつての沙穂子からは想像できない皮肉であった。
「入江くん、なに笑ってるの?」
思わずもれた笑いに、琴子が不思議そうに入江を見上げていた。
「なんでもないよ」
「あーっ、なんか隠してるでしょ、教えてよーーっ!」
「やだね」
「むっ、それなら…っ」
「おいっ!車の中で暴れるなよ!また、髪ボロボロになるぞ」
「いーもーん。そうしたら、また入江くんにしてもらうから」
「…こいつ」
そう言って、これから結婚式に向かう二人が座席の後ろで暴れてる中。
独り身の運転手は、後ろの二人をコソリとみやり、ため息をつきながら、空を仰いだ。
空は、雲ひとつ無い快晴であった
完
あとがき
く、くらいっ!なんじゃ、このくらい話はーーーっ!!!(自分で書いといて何を言う)
実は、この話はずいぶん前から書き出していたものなんですが、あまりの暗さに、殆ど文が進まず…
開き直って「うん、たまにはとことん暗い書き方してみるのもいいじゃん」とアホな開き直り方をして書き上げてしまいました。改めて見ても暗いです(汗)
それの副産物か、ラストはこれまた自分救済みたいに明るくなっちゃいました。
今回は、入江編っぽいのでしたが、また別の人視点とかも書いてみたらたのしそうだなとか、思いました。
でもやっぱ暗くなりそうでちょっと怖い…(^^;
(※ちなみに、これを書いていた時のBGMはミスチルのアルバム「ボレロ」聞いてました。いい曲です♪)
それでは、いつものやつですが(笑)
ここまで読んでくださった皆様。ほんとーに、ありがとうございましたw