宴の跡で

(※このSSは京極シリーズ「塗仏の宴」その後のお話です)

 

 


彼がはじめて病院を訪れたのは、事件が解決した1週間後のことだった。

大正文士そのもののような格好をし、まるで大陸が水没したかのような不機嫌そうな顔をした彼は、ただ病室の扉をじっとにらみつけていた。

彼のことはよく知っている、中禅寺秋彦という名前で、京極堂なる古書店の店主である。

タツさんの昔馴染みの友人で、その細君の千津子さんとはよく映画や喫茶店に行く、所謂家族ぐるみの付き合いのあるかただ。

不機嫌な顔は常なのだと、やれやれといった風にタツさんが話してくれたことがあった事を思い出す。

「あの不機嫌な面にもさまざまな種類があってね」

そう云って、彼の表情をとくとくと説明された覚えもたしかにあった。けれど私にはよく分からない。

 

彼はいったい何を思って、タツさんの病室をにらんでいるのかなど。

 

声を掛けようか、そう思っているうちに向こうがこちらの方に気づいた。

「ああ雪絵さん、こんにちは」

幾分、不機嫌な顔を柔和にさせるだけで、どうも印象がずいぶんと違って見える。

私の方もつられるように頭を下げた。

「こんにちは、お久しぶりです」

云ってから、どうも皮肉のように聞こえまいかと思ってしまった。

 

一週間、彼が現れたのはタツさんが入院して一週間後だったのだ。

もとを正せば、今回の事件の被害者である関口巽…タツさんが冤罪により拷問された原因はそもそも自分のせいだと、一週間前彼は私にそう云った。

なのに、見舞いにやってくるのが一週間もあとになるなんて、そう思えば皮肉のひとつも云いたくなったのかもしれない。

彼は、そんな私の心中を察してか、すまなかったという風に頭を下げ

「いろいろとありまして…見舞いにくるのが遅れてしまいました」

彼の容態は、と云って顔を上げた。

私は首を振るしか仕様がなかった。

「そうですか」彼もそう云うしか仕様が無かった。

すると、彼は私の下に数歩歩みより、「それでは今日のところは」と病院の出口の方に向かいだした。

「あのっ、会ってはいかないのですか」

思わずそう呼びかけていた。

振り向いた男は、少しだけ悲しそうに、そしてほんの少し困ったように

「貴女は会ってほしく無いように見える」

かあっ、と全身が赤くなるような気恥ずかしさが巡った。この人にはばれていたのだ。

 

自分の心の内など。

 

きっとタツさんは回復すればまた、懲りずに京極堂の看板を叩きに行く。

仮令どんなひどい目に会っても、懲りずにまた訪れに行くのだ。タツさんという人は。

 

もうこれ以上、辛いこともひどいことにも関わって欲しくない。

ただ平凡であればいい。

堅実でなくていい。ただ静かに二人で過ごしたいのだ。

そう思えばこそ、目の前にいるこの漆黒の男とは二度と会って欲しくはなかった。

この人に関われば関わるほど、タツさんは傷ついて、壊れてしまう。

 

けれど、

 

でも、

 

沈黙する私をみて、彼はその心中を察し、何も云わず再び私に背を向けた。

「馬鹿にしないでください」

衝いて出た言葉に、私は力を込めた。

黒い男は再び振り返る。

 

「タツさんは、そんなに弱い人ではありません、もちろん私も」

 

男は少し驚いた風だった。

 

「確かに、私の中にほんの少しだけそういう気持ちもありました。だけど、ご存知ですか、タツさんが貴方のことをどんなに楽しそうに私にお話されるか。千津子さんからも聞いてます、貴方がどんなに楽しそうか」

「大誤解ですよ、私は大層迷惑している」

「ええ、だとしても。タツさんが貴方に会いたいと思うのなら、私は止めません、ですから」

会いに来てやってください、そう云った。

 

黒衣の男は、そんな私をしばらく見つめると、顔をほころばし背を向けた。

 

「ええ、次にくるときは千津子と菓子を持って…会いに着ます」

 

そう云った。

 

 

 

蛙の歌が聞こえる季節。

 

 

もうじき夏が訪れる―――。