ハナ一輪、だれのもの 前編
これはがやがや町という小さな町の、まことしやかな噂話。
帽子屋の長女のソフィー・ハッターという女の子が魔法使いハウルに心臓を食べられてしまったらしい。
あわれ、とらわれの帽子屋の娘、けれども帽子屋の娘は長女だから誰も救い出してはくれない。
ああ、なんて可愛そうな赤毛の娘、ソフィー・ハッター!
――そんな噂が、がやがや町中に知れ渡るころ、なんとはなしに事件が起こった。
1.
「ハウル、ちょっといらっしゃい」
箒を片手に、もう一方の手は腰に、ソフィーは薬の実験途中のハウルに向かってそう言った。
「後にしてくれないかな、今は手が離せなくて…」
ペキンッ。
ハウルが最後まで言うその前に
「これで、手が離せるわね」
実験の薬ビンが箒の一撃で見事に砕け散っていた。
かくして、いつもの動く城の一日が始まった。
2.
「ソフィー!なんて事してくれたんだ!これは王様に頼まれたとても厄介な仕事だったんだからね!しかももうじき終わるって時に、ほんとになんて事!」
「ハウルこそ!あのガラクタはなに!?またあたしの知らないうちにくだらない物を買ってきて!さあ、白状しなさい、いったいいくら使ったの!?」
「ガラクタ!?ソフィー、君の目はいつから節穴になったんだい?アレは僕の宝物たちじゃないか!」
喧騒、喧騒また喧騒。
すでに慣れた風に、マイケルはこの夫婦の間をすり抜け、リビングに向かい朝食のパンとソフィーが焼いたカリカリベーコンと暖めたミルクを飲む。
パリンッ!ガシャン!ゴオォォッ!
なんだかありとあらゆる物音が夫婦がいた実験室から響いてくる。
マイケルはモグモグとパンとベーコンをよく噛みながら、次第にやんでいく騒音に耳を傾けていた。
「いつもいつも飽きないないよね、ほんと」
そうして、マイケルの朝食が終わるころ、騒音は完全に静かになった。
これもまた、いつものことであった。
そして、これからが少しいつもと違う出来事の始まり。
3.
「花?」
店先に花一輪。
花屋の店の前に、花がポツンと落ちていたとしても、たいがいの人は疑問には思わないだろう。
「おかしいわねぇ」
しかし、ソフィーは首をかしげた。
「昨日は確か念入りに掃除をしたはずなんだけど」
完ぺき主義のソフィーに掃除を手抜きするはずもなく、
「それに、こんな花うちにあったかしら?」
まるで見覚えのない花があれば、首を傾げたくもなるのだった。
が、しかし、完ぺき主義で掃除好きの彼女は、残念なことに深く考えるという才能は持ち合わせてはなく
「まぁ、すごくきれいだし、ねぇ、きれいなお花さん、うちのリビングをあなたで飾ってくれないかしら」
そう花に話しかけると、ひょいとソレを拾うソフィー。
そういって、彼女はリビングの机に、ハウルが買ってきたガラクタの中から一輪挿しを取り出し、ソレを飾った。
すると、見る見るうちにリビングにその花の芳香がただよう。
「あら素敵、あなたなんて、いい匂いなのかしら。きっとハウルあたりが喜びそうね。…っと、いけない!わたしったら!すっかり店を空ける時間になっちゃったわ。それじゃあお花さん、行ってくるわね」
花弁に軽くキスをして、ソフィーはまたいつものように、荒地から花をつみに行くのだった。
ぱたん、としまる扉の音。
花はそこで香り高くあり続ける。
4.
翌日、ハウルは昨日から王室に泊り込みで仕事をしているので城にはいない。
曰く
「うちには王様よりも怖い奥さんが、僕の仕事をいまかいまかと邪魔をしに来るからね、ああ根に持ってないさ、持ってないとも!」
だそうである。よっぽどこの間のことを根に持ってるらしい。ソフィーはぷいとむくれた。
「ね、ひどいでしょ、ハウルったら!ほんのちょっぴり仕事の邪魔をしたからって、そこまで怒ることないのに」
「ほんのちょっぴり…だったかなぁ」
くびを傾げるマイケルに「あなたもハウルの味方なのね」と睨んでやれば。
「とんでもない、ええまったく、心の狭い人ですねハウルさんって!」
と勢いよく同意してきた。
そんなマイケルにフンと鼻をならすとソフィーはリビングからカリカリのベーコンとスクランブルエッグを盛り付けた。
「さぁ、さっさと朝食食べて頂戴!」
と皿をリビングの机に載せると。
「あら?」
首を傾げるソフィー。
「どうしたんですか」
首をひねったままのソフィーにマイケルが尋ねる。
「花が、ないのよ」
「は?」
「昨日、この一輪挿しに白くて、下が薄いピンクの花を挿したのだけれど、おかしいわね、どこ行ったのかしら」
首を傾げるソフィーに、さらに首を傾げるマイケル。
そして、ソフィーはいつものように、店を開けると
そこには、花一輪。
「昨日は確かに、絶対になかったのに!」
またも店に置かれた花に、さらに首をかしげたソフィー。
やはり深く考えず、ソレを再びリビングに飾るのだった。
カルシファーは居らず、ハウルはいまだ帰らない。
5.
甘い香りがする。
どこかで嗅いだことのある不思議と甘くて、懐かしい香り。
はじめてハウルに会ったとき彼が付けていたヒヤシンスの香りだろうか。
いいえ、違う。
じゃあ、最近ハウルが気に入っているシャンプーの香りだろうか。
違う、違う。
じゃあ――?
『というか、あなたは、あなたの思う甘い香りは、すべてあの魔法使いハウルに繋がっているのですか』
だれ、あなた?
『わたしはしがない魔法使い。あなたを悪い魔法使いから救いに来ました』
悪い魔法使い?
『ええ、魔法使いハウルのことです』
ハウルが、悪い魔法使い?冗談でしょう?だいたい救いって…
『あなたをそこから出してあげましょう』
ちょっと、あたしは何も…っ
『まずは、匂いを思い出しなさい。その香りは本来あなたのモノなんですから』
だから、ちょっと―――っ!
6.
「待ちなさいっってば!!」
ガバッ、と目覚めたソフィー、冷や汗が滝のように流れてゆく。
「な、なんだったのかしら、今のは…夢?」
汗を拭いながら、止めていた息を一気に吐く。
少し落ち着いたが、あの男の声が耳にいつまでも残っていた。
『あなたをそこから出してあげましょう』
この城から―…。
「冗談じゃないわ」
独白して、ふいに大きすぎるベッドの隣に、ハウルがいないことを、猛烈に寂しく感じた。
「早く、帰ってきなさいよ、馬鹿」
あなたがいないから、こんなわけの分からない夢を見るんだから。
こんな馬鹿な夢をみて、それをハウルに隣で話を聞いてもらえれば、そして笑って済ませられたら、こんな思いはしないのに。
「早く帰って来い、馬鹿」
文句をいくら言ってもハウルは帰ってくるわけもなく、それに気をとられているソフィーは
部屋に充満した花の香りにも気づかずにいた。
7.
そして、またいつもの朝。
ではなく、
「マイケル?いないの?」
呼んでもマイケルからの返事はない。
「まぁ、またマーサのところへでも行ってるのね。それにしても!一言くらい言ってくれればいいのに」
朝食が余ってしまったではないか。
そう言って文句を言いつつも、ポツンと大きなこの城に一人でいると、ふいにまた今朝の夢が思い出される。
けれど、
「どんなのだったかしら」
あまり細かく言葉を覚えていたわけではなく、しかも夢だったので、すでにもう記憶がかなりあいまいである。
「ええと、確か匂いがどうとか…」
コンコン…。
首をひねったソフィーに、唐突に扉から誰かが来た。
「あっ、はいはい…ちょっとまっててください」
はっとして、ソフィーは扉の向かう、さて、どの扉だろうと考え、とりあえず、一番お客が来そうな花屋がある、がやがや町の扉を開けた。
かちり。
ドアをがやがや町につなげた瞬間、狂う位に甘い香りが鼻腔を貫いた。
『…――その香りは本来あなたのモノなんですから』
はっとして、ソフィーは扉から離れた。
思い出した、この香りは…私の香りだ。
花屋のソフィー・ジェンキンスの香りではなく、帽子屋のソフィー・ハッターの…
扉は繋がれたまま、一歩二歩離れたソフィーに、キィと木のきしむ音が聞こえ、そして扉が開かれた。
「こんにちは、ソフィー・ハッター。私はあなたを救いに来ました」
魔法使いの手にはいっぱいの花、一輪挿しにとソフィーが生けたハナ。
それを見てソフィーは悟った。ああ、またやってしまった!と、
いつもいつも、自分は迂闊なのだ。
あれは、きっと魔法の花。ソレをハウルもカルシファーもいない城に迂闊にも招いてしまった。
「さあ、行きましょう、可哀想な帽子屋の長女」
いつの間にか、魔法使いの手から花は消えていた。
そして、自分の意識とは無関係にソフィーの手は男の手を取った。
(体がいうことを聞いてくれない。怖い、ハウル助けて!)
口に出そうとするも、口も自分の言うことは聞いてくれなかった。
「ふふふ、インガリー一の魔法使いに心臓を食われた、あわれな娘。これが奴の鍵となるか」
がらんどうの城を残し、魔法使いとソフィーはがやがや町から消えたのだった。
++++後書き(というか、中書き)++++
ええ?続くのコレ。とか自分で思ってます(まて)
後編、出番の少なかったハウルさん活躍(ややヘタレ気味)編です。
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